コノハンキャンプ

クラゲのお勤めする会社、「切株会社コノハン」の社内キャンプに行ってきました。


社内キャンプと申しましても、定例行事などの本当は行きたくないと思っている人がたくさんいる会ではなく、酔っ払って騒ぎたいだけの飲んだくれが集まる、いや失礼、仲間との交友を深めようとする有志が集う、どちらかといえば私的なキャンプです。
不定期ながらも年に数回開催されるこのキャンプには、コノハン社員だけでなく、「コノハン社員の家族」「コノハン社員の恋人」「元コノハン社員」など、「(切)コノハン」とつながりのあるメンバーが参加して、わたしもクラゲの飼い主として、今回、何度目かの仲間入りを果たしてきた次第です。


何度目かの参加で気づいたことがあったので、その話を少し。


あるコノハン社員のご家族で、ミドリさんという奥様がいらっしゃいます。3歳前後のふたりの小さな子供たちも一緒に、キャンプにはいつも家族4人そろって参加です。
ご主人はいつもニコニコしていて、お酒を飲んではニコニコ、お肉を食べてはニコニコ、みんなとしゃべってニコニコ、誰かに「食べて食べて」「飲んで飲んで」と勧めてニコニコ、ずっとニコニコしていて、いつまでニコニコしてるんだろうなーと思って見ていると、最終的にはニコニコしたまま寝ています。

一方で、奥様のミドリさんはずっと立ち働いています。テーブルのセッティングに始まって、全員のコップ、紙皿、箸、おつまみ、紙ナプキン、ウェットティッシュ、ゴミ袋、まな板に包丁、懐中電灯やランタン、キャンプに必要なあれこれすべて適材適所に準備して、みんなの飲み食いが始まれば、そこからミドリさんは後片付けを始めるのです。誰かが空にした置きっぱなしの缶を捨て、誰かが食べ汚したテーブルを拭き、誰かが落とした箸を拾い、必要とあらば遠く炊事場まで水を汲みに行く、という。しかも誰にも何にも言いません。「こっちお願い」とか「誰かこれ手伝って」とか。いっさい、ありません。自分で見て、自分で決めて、自分で動いて、おそらく家でもそうであるようにキャンプの間中もずっと静かに働いています。


今回も同じように、ミドリさんは立ち働いています。


コノハン社員および関係者の全員が好き勝手に騒いでいる中、ミドリさんだけいつも静かに働いているのを、わたしは不思議に眺めていました。「ミドリさんは嫌じゃないんだろうか」という疑問もありますが、どちらかというと「どうして誰も注意をしないんだろう」と。
社内関係者の集まりですから当然、先輩後輩などの上下関係はあります。ミドリさんのご主人は、参加者ほとんどの先輩にあたる人です。その先輩の奥様ひとりが黙々と立ち働いているのに目もくれない後輩社員に対して目もくれない先輩社員たちよ。なぜだ、と。「おまえら、ちっとはミドリさんを手伝え」くらい言っていいのではないか、と。いや、言ってしかるべきじゃないか、と。


でもみんな飲んではしゃいで楽しいのだし、なによりミドリさんがこれっぽっちも気にしていない様子なので、おそらくこのままでいい、というより、このままがいいんだろうな、そういう会なんだろうな。でもきっと解散する前にはみんなでミドリさんにありがとうございましたの一言くらいはあるんだろうな、そこはやっぱりけじめとして当然、と思っていたら、それもない、という。


今回もやっぱりありません。


それがずっと不思議だったのです。注意もなく、感謝もなく。こんなことでいいのかコノハン、と。
そこで「切株会社コノハン」への疑問ではなくて、自分への疑問に変えてみたんです。どうして(おそらく)わたしだけが不思議に思っているのだろうか、と。後輩たちを注意しない、ミドリさんへの感謝を口にしない、そのことをどうしてわたしだけが強く気にしているのだろう、と。


そう考えたら答えが出たんです。これは「社風である」と。


わたしは今の会社で働き始めて10年経ったのですが、他人への気配りや、人に対する感謝を、ともかく日々、意識づけされてきました。配慮する、感謝する、謙虚でいる、それが社会人としてもっとも大切で必要なことである、と。でも言い方を悪くすればそれは会社から「植え付け」られたものであるということに気がついたのです。
そういう視点で思い返してみると、わたしはもはや「感謝するべき人を探している」ような気さえします。あるいは「誰かに気配りを見せないと落ち着かない」のかもしれません。ありがとうございます、おそれいります、と謙虚な姿勢を見せないと叱られてきた過去が、たぶんそうさせるのでしょう。めっちゃくちゃ、叱られるので。


だからね、何が言いたいかわからなくなってきたので、簡単にまとめちゃうと、
「それでいいのだ、コノハン」と思ったのです。


また行きたいです、コノハンキャンプ。って、こんなこと書いて行かせてもらえるかな。。。