うちの
uubさーん、と声がします。キッチンのいちばん奥からコアラ君が呼んでいました。
「もしかして、土曜日、行ってましたか?」
気がついてくれてありがとうございます。はい、わたくし天皇杯の決勝戦を観に、おやすみもらって日産スタジアムまで行ってました。
「うん、行ってたー」
「一大事ですもんね」
「そうなんです」
「負けちゃいましたね」
「そうなんです」
という会話。
「あのキーパーすごいんですか?」とコアラ君が言うので、「うちの?」って聞いたら、「うちの!?」ってコアラ君が驚きながら笑うので、え、なんでだろ。と思ったら「いいですね、uubさんのその、『うちの』っていうの。」って。
「あんなにも巨人が大好きなピーチ君でも、『うちの』とは言いませんよ。」って。
あーなるほど。でも野球ファンの人たちのことはわからないけれど、サッカーのサポーターにはめずらしくないと思います。うちの、って言うの。わたしが例外なわけじゃない。
今みたいに「うちのチーム」を応援するようになる前、わたしはサポーターと呼ばれている人たちを見て、他人のすることをよくそんなに熱心に応援できるなと不可思議に思っていたし、自分が応援するようになってからは、別の誰かに同じことを言われもしました。でも、応援するようになってわかったことは、そもそも「他人のすることを応援している」わけではない、ということです。「他人のことを、自分のことのように思っている」わけでもない、ということです。応援することを通して選手とともにチームを作っている、ということです。だから、応援するということは「自分のこと」なのです。
今シーズン、別のチームですが、ある事情で「無観客試合」というのがありました。文字通り、観客がひとりも入れない、応援する人も、観戦する人も、スタンドには誰ひとりいない、そういう試合がありました。その試合のハイライトをテレビで見ましたが、まるで練習試合をしているようで、どっちが勝っても負けても、誰も気にしていないような、そんな気持ちにさせられるとても寂しい試合でした。
応援は、ただの応援です。ピッチでプレーできるわけではない。その意味で応援の力を信じない人もいると思うし、わたしもそんなに強く信じているわけではない。みんなで大声を出したところで、みんなが願ったところで、シュートが入るわけではない。でも応援するということは、結果とは関係がありません。勝つから応援するのではないし、負けるから応援しない、ということでもない。応援によってそのチームを作りたいから関わっているのです。チームを作る、チームを作りたいと思っている、その一員だから、「うちの」なのです。
コアラ君、わかってくれるかな。わかんなくてもいいけど。
あ、そうそう。うちのキーパーの話でしたね。そうなんです、すごいんです。