【DADA】RADWIMPS (12th SINGLE)


アルバム『絶体絶命』の感想文の前に書いておかないと。


今年の1月に発売されたシングル曲。昨年6月発売のシングル『マニフェスト』も素敵だったけれど、もうひと越え、と望んでいたので、『DADA』のリリース情報を耳にして、その曲に期待しないわけにはいきませんでした。しかも2月にはこれに続く13thシングル、3月にはアルバムも出ると言われたなら、その第1段の発売を待つ嬉しさもひとしおです。


わたしにとってのRADWIMPSの最大の魅力を語ろうと思うと、音楽そのものの魅力とはちょっと離れた、とても個人的な話になってしまうので、しないのですが、音楽そのものだけで考えたときの最大の魅力は、今のところ「音」だなあと思っています。ってちんぷんかんぷんな言い方ですけれども。


たとえばもし、わたしにとってのL'Arc-en-Cielの最大の魅力は何かと聞かれたら、わたしは「声」と答えます。hyde君の声。
RADWIMPSの音楽を最初に聴いたときも、わたしはVo.野田君の声に度肝を抜かれました。うわっ、と思いました。その「うわっ」の中身については別のときに書きますが、RADWIMPSについても最初に惹かれたのは声だったんです。


でも、いろいろな曲を継続して聴いているうちに、その間にわたしの音楽の聴き方が変化したためでもあるのですが、わたしは彼らの音楽の「音」を楽しむようになりました。


話を少し変えます。クラシックピアノの演奏で大切にしなければならないことの一つに、「音と音の間を歌う」ということがあります。楽譜で言うなら音符と音符の間、演奏で言うなら鍵盤をたたかない間、です。物理的には空白の時間です。それを「歌う」あるいは「表現する」ということ、これがクラシックピアノの演奏ではとても大切です。ピアノという楽器は一度たたいた鍵盤の音に変化を与えることはできない(自動的に小さくなって消えるだけ)ので、音と音の間を歌え、というのは要するに、音を出さなくても表現しろ、ということです。物理的には不可能なんです。でも、物理的には不可能なことが、音楽だと可能になる、なんて言うのは自分で言いながらちょっと恥ずかしかったです。やめましょう。実際には、「音と音の間」をどう表現しようとするかで、「音」自体が違ってくるのだと思います。でもその「音」を変えようと思ったら、「音と音の間」を歌うしか方法はないんです。本当ですよ。その表現がどのようになされるかで、演奏は天と地ほど違ってきます。


RADWIMPSは「音と音の間」をあまり歌わない、と少なくともわたしはそう感じています。楽器もヴォーカルも。


ふつう音楽は、その曲を構成する一音一音が、その先にある音を目指して演奏されると思います。目指す、ということがより感性的な言い方をされると「歌う」ということになるのかもしれません。ともかく、前にある音は、いつも後にくる音を思って鳴らされます。だから端的に言ってしまえば、「音と音の間」が歌われないということは、前にある音が後にくる音を思わないということです。その一音で完結。曲によっての差を無視してしまえば基本的にRADWIMPSの音楽はわたしにはそう聴こえます。


だからダメだと言っているのではなくて、そこがすごく魅力的だと言いたいのです。


先の音を思わないその音は、遊び心に富んでいて、とても自由です。好奇心さえ感じてワクワクします。刹那的とも言えるその音は、だからこその楽しみがいっぱい詰まった時間の箱です。楽しみのいっぱい詰まった瞬間の連続、それがRADWIMPSの音楽だとわたしは感じています。すごく速いスピードで次から次へと無限に開けられていくおもちゃ箱のような。歌われない空白の時間はその楽しさで埋め尽くされていって、結局全部、楽しい。


『DADA』はその魅力が特に表現されている曲だと思います。って一言で結んだら、感想文、短かすぎるかな。



DADA

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